○…アテネ五輪体操男子団体総合の金メダリストで、その後の体操ニッポンをけん引してきた水鳥寿思選手(27)=徳洲会、静岡市出身=が北京五輪代表の座を逃した。2次選考会で痛めた右上腕の影響で17位に沈んだ代表決定競技会後の記者会見、静岡新聞に載った言葉はつらかった。「『(北京)五輪に出られなかったら』なんて考えたこともなかった」。誰もが同じ思いだったろう。もちろん筆者もその1人だ。「(実力世界一の)中国選手の地元で個人種目も堂々と渡り合いたい」。そう繰り返してきた水鳥選手は号泣した。「競技生活を続けるか否かも考えられないほどショックを受けているようです」。ご家族の言葉は、筆者の心に痛く響いた。
○…体操競技は世界に名前が知られていることのアドバンテージも大きい。アテネ五輪の団体総合は、つり輪のみの出場だった。日本が不得手とする種目で安定した演技を披露し、28年ぶりの団体金メダル獲得に大きく貢献した。しかし、「世界」に名を知らしめたのは、アテネ五輪後の活躍だった。昨年の世界選手権では日本男子として26年ぶりとなる4個のメダルを手にした。五輪の谷間の4年間、常に体操日本をけん引し、日本が世界に誇るオールラウンダーは、北京に「出る」ではなく「いかにして勝つか」が目標だった。
○…かつて選手生命を危ぶまれる2度の大けがを克服した。昨年の世界選手権は、国内代表選考会を肩痛で「完敗」したが、正選手が現地練習で骨折したために代替出場した。直前のユニバーシアード大会は、主将として団体総合と個人総合、鉄棒の3冠を達成した。連戦による左ひじに残る違和感を乗りこえての世界選手権の大活躍だった。「けがからの復活」「不死鳥」といった代名詞が似合う水鳥選手が、4月の五輪代表2次選考会初日で痛めた左上腕の故障に泣いた。くしくもアテネで「世界の水鳥」の第一歩を記した「つり輪」での出来事だった。
○…トレーナーを務める母見香さんは、その日の夜に行ったマッサージを振り返った。「十字懸垂の時に『ピっ』と腱(けん)が切れるような音がしたと言ってはいたが、はれも塊もなかった。大丈夫だと思っていたので、翌日の状態は『えっ』っていう感じでした」。初日の4位から11位に大きく後退し、2次選考会を終えた。「土壇場になって(つり輪の)演技構成を変えたのが原因。自分の不注意でした」。水鳥選手の言葉が静岡新聞にあった。
○…難易度の高さに挑戦する姿勢を評価する国際試合に対し、国内試合は堅実な演技を評価する傾向がまだ残る。父一夫さんは言う。「北京の本番を意識した練習と今回の構成の差に迷いがあったのでは」。代表決定競技会まで半月。見香さんは週2回上京し、息子のケアに努めた。しかし、競技会までに炎症は治まらず、痛み止めの注射を打って臨んだ。無理をすれば腱が切れる可能性もあった。初日16位、2日目(最終日)17位。「水鳥、北京切符逃す」の見出しとともに静岡新聞に載ったのは、つり輪の演技中、痛みに顔をゆがめる姿だった。
○…「あの写真を載せてもらい、地元の方には『寿思はあんな状態でも戦った』と分かってもらえたと思う」と見香さん。世代交代は世の常だ。大学生コンビの北京五輪代表入りは、体操ニッポンの層の厚さを示したともいえる。「すいません。きょうの僕はあれが精いっぱいでした」。水鳥選手が競技会後、家族にあてたメールだ。その後、両親から連絡は取っていないが、「どん底から再びはい上がれ」というチーム関係者のなぐさめと激励に、「(今回の結果で)自分の体操が否定されたのでは」とふさぎ込んだ言葉を漏らしたと聞かされた。
○…「世界の中の日本」「日本の中の水鳥」を意識し続け、自らの演技で「世界王者ニッポン」を4年間つないできた自分の存在とは何だったのか。「自分の体操」とは、「実績」や「貢献」への自負もあったのだろう。日の丸戦士としての責任を必死でまっとうしてきた「自分の体操」である。日本選手で唯一3度の離れ業を決める鉄棒は、北京五輪の種目別決勝に向け、難易度を6・8から7・2まで上げる練習に励んでいた。座右の銘「練習は本番のように、本番は練習のように」にならい、本番を想定した努力を惜しまずにきた。
○…満身創いの戦いを最後まで投げ出さなかったのは、「種目別ポイントで選ばれる3人に入る可能性はある」と語った一るの望みというよりも、アテネ以降の日本を引っ張った男の最後を観客の目に刻み付ける「こん身の演技」に思えて仕方がない。競技会が行われた岡山では高校時代を過ごした。「お世話になった岡山の方々の前で棄権などできなかったのだろう」。一夫さんは心情を察し、「五輪王者の誇りだったと思う」と結んだ。
(5/9 掛井 一也)