○…静岡県学生野球春季リーグで東海大海洋学部(静岡市清水区)が日本大学国際関係学部(三島市)の“5連覇”を阻んだ。「東海大海洋V、5季ぶり」の見出しと喜ぶナインの写真が載った静岡新聞の記事に、大村晴男監督の言葉を探した。「日大ばかり勝たせてはいけないと思ってはいたが…。それにしてもラッキーな勝ち方だった」。敵失に乗じた経過を笑顔で振り返ったという記事を読みながら、半月ほど前に偶然再会した大村監督の言葉を思い出していた。
○…東海大工業高の監督時代以来、10年ぶりに出会ったのは4月下旬、春季高校野球県大会初日の清水・庵原球場だった。バックネット裏の観客席。「やっぱり、いいねえ、高校野球は」。開口一番言った大村監督が続けた。「海洋学部には逃れられないものがあるんだよ、海洋実習」。1週間前のリーグ戦で連敗を喫していた。「レギュラーがごっそり外洋に出ちゃうんだから」。仕方がないなという表情で大村監督は苦笑したが、「指揮官として本音では笑えない現実だろうな」と心中を察した。
○…観戦は高校球児のスカウティングかと思ったが、違った。第2試合に登場した藤枝明誠高の野球部副部長が息子の豪士さんだった。豪士さんは2002年、清水東高から東海大海洋学部に進んだ。当時の静岡新聞は「静岡学生野球リーグに“親子タカ”」の見出しで報じた。その後、教員採用試験に合格した豪士さんは、父と同じ指導者への道も歩み始めていた。第1試合の途中、大村監督の隣に藤枝明誠高ユニホーム姿の青年がいた。豪士さんだった。「(大村)監督は明誠の面倒も見てるのかと思った」。無知な筆者の言葉に大村監督はうれしそうだった。
○…東海大工業高時代は、OB監督として2度の甲子園に導いた。1999年に同校と東海大一高が統合され、東海大翔洋高が誕生した。けがで指導の現場を離れていた2000年、静岡県学生リーグの下位に低迷していた東海大海洋学部の野球部監督に就任した。県学生リーグ発足3季目、それまでの東海大海洋は監督不在で戦ってきた。「何十年やっても優勝できないのでは」。初めはそう思っていたというが、就任4年目の秋季リーグで悲願の初優勝。創部12年目の快挙に沸いた。翌年も、再び秋季リーグを制した。
○…県内高校球界では、斉藤鉄夫監督が率いた東海大一高野球部とともに、東海大工業高は私学の雄として長年君臨した。両校統合の前年、新校舎建設のため、東海大工業高野球部グラウンドが歴史の幕を閉じる際、大村監督にはプロの世界に羽ばたいていったOB取材の仲介も快く引き受けてもらった。吉永幸一郎内野手(当時福岡ダイエーホークス)、五十嵐英樹、森中聖雄の両投手(ともに当時横浜ベイスターズ)。オールスターファン投票でパ・リーグ2位につけていた吉永選手らの携帯電話に、年甲斐もなく緊張して掛けたのもいい思い出だ。
○…大村監督の人柄を象徴するエピソードがある。もう時効だ。夏の高校野球県大会に向け、静岡新聞紙上で初夏から始める出場校の戦力紹介。「直前特集のメンバー表は完全な形で渡すから、今はこのメンバーにしてくれないか」。夏は背番号がもらえないであろう3年生たちの名前が毎年、補欠の欄にあった。「新聞に名前が出てると就職で有利になるんだよ。3年間頑張った彼らのためだから」。何も言い返せなかった。あれから10年。“大村野球”は変わらないのだろう。日大国際との最終週対決の“逆王手”から手にした5季ぶりの王座奪回。心から「おめでとうございます」と言いたい。
(5/15 掛井一也)