○…“人類史上の世界最速”を競う陸上男子100メートル。北京五輪代表を争う全米選手権でタイソン・ゲイ選手が追い風参考ながら、初めて9秒7の壁を破る9秒68をマークした。同種目は昨年9月にアサファ・パウエル選手、今年6月にウサイン・ボルト選手のジャマイカ勢が、9秒74、9秒72と世界新を連続更新。全米選手権と同時期に行われたジャマイカ選手権の直接対決が注目を集めていた。昨年も追い風参考ながら9秒7台を連発したゲイ選手の好走は、”陸上超大国”が北京五輪に向けて上げた宣戦布告の「のろし」にも思える。
○…たとえが適切ではないかもしれないが、五輪を世界最大の運動会と見立てれば、100メートル競走と、そのスプリンターたちが組む4×100メートルリレーこそ「大会の華」だ。1988年のソウル五輪でベン・ジョンソン選手(カナダ)が9秒8の壁を超え、9秒79で優勝した時の驚き、そして、さらに世界を驚がくさせた薬物使用(ドーピング)違反による金メダルはく奪と記録抹消、大会途中の強制帰国。ドーピングの罪は、身体への影響、周囲への裏切りとともに、汚れた記録ながら「器具を使わない生身の体による最速」の事実を残してしまうことにある。
○…名実ともに人類が9秒7台に突入したのは、1999年のモーリス・グリーン選手(アメリカ)の9秒79。しかし、ジョンソン選手と“同タイム”だったため、かのギネスブックはジョンソン選手の記録を注釈付きで「人類が(最初に)到達した最速記録」として残したという。「偽物の世界最速記録」は2002年、ティム・モンゴメリ選手(アメリカ)が9秒78をマークするまで“君臨”したが、3年後にスポーツ仲裁裁判所でドーピング違反の裁定を受けたモンゴメリ選手の記録も「偽物」に堕ちてしまった。
○…グリーン選手に続いて壁を破ったのは、2005年のパウエル選手の9秒77。以来、パウエル、ボルトの両選手による9秒7台の最速連続更新は、ジョンソン選手以来20年近く抱えた「偽物の呪縛(じゅばく)」から同種目を完全に解き放つ大きな意味を持っていた。ジャマイカ選手権での直接対決は「最初から真剣勝負するつもりはなかった」とボルト選手が終盤流してのレースにもかかわらず、向かい風0・1メートルでボルト選手9秒85、パウエル選手9秒97。同国史上初の男子100メートル五輪金メダリスト誕生に向け、パウエル選手は北京での「一騎打ち」を宣言した。
○…一方、全米選手権のゲイ選手は2次予選でパウエル、ボルトの両選手に次ぐ世界歴代3位の9秒77で自己新記録。決勝で出した「夢の9秒6台」は追い風参考4・1メートルと、参考扱いとなる風速2メートルをはるかに上回る「後押し」を受けた。アメリカは2000年シドニー五輪のモーリス・グリーン選手、前回アテネ五輪のジャスティン・ガトリン選手に続く男子100メートル3連覇が掛かる。ガトリン選手が2度のドーピング違反で4年間の出場停止処分中のアメリカと、ベン・ジョンソン選手の出身国のジャマイカ。北京五輪での「世界最速」の行方は、両国にとって「悪夢払しょく」の舞台でもある。
(6/30 掛井 一也)