○…北海道函館市で行われた陸上の南部忠平記念競技大会で、女子走り幅跳びの日本記録保持者である池田久美子選手(スズキ)が五輪切符をつかんだ。北京五輪出場へラストチャンスだった。ガッツポーズの後にしゃがみ込み、両手で顔を覆ったという。「うれしいというか、訳がわからなくなって」。静岡新聞の1面と社会面を飾った安どの笑みと感涙の表情が、「やっと」の思いを物語った。
○…2年前の池田選手には想像もできなかっただろう。2005年の大阪グランプリ、6メートル86の日本新記録で優勝。同年の世界ランキング6位に相当する好記録に、日本人女子初の7メートルジャンプも見えてきた。翌06年のドーハ・アジア大会でも6メートル81をマークし、同種目で日本人36年ぶりの金メダルを獲得した。五輪参加標準記録Aの6メートル72を余裕でクリアし、自身初の五輪出場は誰もが疑わなかった。
○…「世界」に肩を並べる7メートルまで、あと「手のひら」分まで迫った。しかし、道のりは順風満帆ではなかった。07年の世界陸上大阪大会を控えた欧州遠征は、6メートル49、6メートル48と低空飛行。それでも、世界選手権の8年ぶり日本開催に7メートルジャンプの期待は高まった。日本選手団女子主将で臨んだ大阪大会だったが、6メートル42、まさかの予選敗退に終わった。
○…北京の表彰台という夢の実現に向け、助走スピードを上げ、そのスピードを維持したまま、跳躍につなげようと努めた。スピードが上がった分、最後3歩の歩幅を長くとった。しかし、簡単ではない。助走スピードと踏み切り技術が合わない状況は、今季も続いた。3月の世界室内は6メートル17で予選敗退、5月の北京五輪テスト大会は最終6回目での逆転Vも、6メートル45と低調なままだった。
○…これまで何度も口にした「7メートルと(五輪で)メダル獲得」を封印した。「手のひら分」の難しさを肌で感じた。「記録は眠った状態だが、技術は右肩上がり」と臨んだ6月下旬の日本選手権。日本歴代2位の記録を持つ100メートル障害はエントリーせず、走り幅跳び1本に絞った。失速した状態で踏み切るケースが多い反省から、助走を18歩に2歩縮め、1歩目から全力で突っ込む助走から、残り15メートルで加速する方法に切り替えた。
○…事前の練習で手ごたえをつかんでいた。しかし、試合で取り入れるには早すぎた。記録は6メートル42と伸びず、順位も3位に沈んだ。「力を出し切って負けたなら泣いたかもしれないが、自分の初歩的なミスだった」。陸上に残された代表枠は男女合わせて4枠。「選ばれるようにお願いするのではなく、自分で勝ち取りにいく」。そう言い聞かせて臨んだのが、南部記念という“追試”の舞台だった。
○…北の大地での1本目。大会新記録の6メートル70を跳んだ。4日前に歩数を20に戻す決意をしたという。一気の加速のイメージを保ったまま、今季自身最高記録をマークした。試行錯誤、う余曲折、悩み、苦しみ、さまざまな経験が詰まった跳躍だった。「周囲の支えがあって」「いろんな人の思いとともに」。試合後のインタビューで言葉を詰まらす姿がテレビ画面に映し出された。
○…アテネ五輪はライバルの花岡麻帆選手との代表選考にわずかの差で敗れ、「ゴム跳びから教わった」父に吉報を届けられなかった。北京五輪での晴れ姿を楽しみにした父は3年前に他界した。さらに、スズキ同期の親友で女子砲丸投げのアテネ五輪代表の森千夏さんも2年前に病で失った。「一緒に北京」が合言葉だった。土壇場で五輪切符をつかみ、静岡新聞記事は「やっと行けるよ」の言葉で結ばれた。
○…今年元日付の静岡新聞に掲載されたインタビューで答えている。「跳んで喜ぶのは一瞬。でも、そのために長く考える時間が必要です」「ほんの一瞬だけど『輝けた』って時にやりがいを感じます」。五輪出場を決める一瞬に向かう苦しく長い助走を終え、北京に輝く跳躍に踏み切る時が来た。「イケクミ・スマイル」を期待したい。
(7/7 掛井 一也)