○…静岡県勢82年ぶりの快挙はならなかった。第90回全国高校野球選手権で常葉菊川が準優勝。1926年(大正15年)の静岡中(現静岡)以来の頂点は極められなかった。しかし、県勢35年ぶりで上がった決勝の大舞台。昨年春の全国王者、昨年夏ベスト4、昨年秋の明治神宮大会制覇に続く快進撃で、「新鋭全国区」の名は不動のものとなった。今春のセンバツ3回戦敗退以降の道のりは平坦でなかっただけに、夏甲子園の「先輩越え」を果たしたナインの涙は、決して悔し涙ではなく、達成感あふれるそう快な涙だったことだろう。
○…常葉菊川の代名詞となった「フルスイング」。静岡大会は初戦こそコールド勝ちしたが、その後は打線が本来の力を出せなかった。「それでも勝ち上がったのは、高い技術に裏打ちされた守備力があってこそ。決勝では再び打線が火を噴いたが、守備の大切さを見せつけた優勝だった」。静岡新聞記事が振り返った通り、静岡商以来の夏39年ぶり連覇には堅守があった。甲子園初戦の2回戦は6回二死まで無安打。それでも福知山成美(京都)のすきを突いた一瞬のプレーで劣勢をはねのけた。わずか3安打の打線を堅守で支えた時、快進撃の予感は漂った。
○…「強さ」の証明ともいえる粘り勝ち。絶対的なエースの戸狩聡希投手がひじ痛で本来の投球ができない中、静岡大会で光った守り勝つ野球が輝きを増した。3回戦の倉敷商(岡山)戦は五回に7点、準々決勝の智弁和歌山(和歌山)戦は六回に10点、準決勝の浦添商(沖縄)戦は二回に9点。毎試合「ビッグイニング」をものにした。準決勝まで4試合で4本塁打を含む35得点の集中打は、主戦が本調子を欠く投手陣に「1点でも多くプレゼントしたい」という気持ちが原動力となったのではないだろうか。これも、また“堅守”である。
○…決勝こそ大差がついたが、致し方ない。大阪入り後、大会開幕を2日後に控えた練習中、突然の左ひじ痛に襲われた戸狩投手。本来の球威は欠くとはいえ、初戦は上手投げから粘りの投球を見せた。スライダーを中心に制球で勝負し、100キロ台のスローカーブを交ぜて球速の出ない直球を補った。だが、3回戦の登板回避で迎えた準々決勝。5回二死満塁で継投のマウンドに上がると、スリークオーターの背番号1がいた。最速141キロの豪腕はいない。時折、横手投げも交えた切れと制球が命綱。その姿は準決勝も変わらなかった。
○…準々決勝以降の先発、再登板の起用に佐野心監督は言った。「最初と最後は戸狩でいくと決めていた。エースですから」。決勝に先発したエースは、完全な横手投げだった。わずかでも切れを欠き、制球が甘く入れば「つるべ打ち」に遭う危険は織り込み済みだったはず。初回いきなり3連打から満塁本塁打を浴びた。3回までに9安打を許した。1回戦から5試合連続2けた安打の大阪桐蔭打線に、これまでエースを支えてきた投手陣もこらえきれなかった。大黒柱が精も根も尽き果てた時、畳み掛ける勢いと爆発力を誇った打線も大会10年ぶりの決勝戦完封で終えんした。
○…5月の春季県大会は準々決勝で兄弟校の常葉橘にコールド負け。直後には前監督が不祥事でチームを去った。「転機となったのは、6月中旬の大阪桐蔭高との練習試合。気迫を前面に押し出す相手チームに1―9と大敗し、選手の目の色が変わった」。静岡大会優勝時、静岡新聞記事は伝えた。リベンジはならなかった。だが、グラウンド外での試練やエースの故障という不測の事態を乗り越え、「きずな」を合言葉に、仲間を信じ、つなぐ野球に徹し、全国4059校の頂点まで迫った。大正から平成へ紫紺の大優勝旗はつなげなかったが、凱歌はナインの胸中に響いていることだろう。
(8/18 掛井 一也)