○…ハンス・オフト氏といえば、ベンチから指笛で指示を送る姿が真っ先に思い浮かぶ。日本代表を率いた1993年のワールドカップ(W杯)サッカーのアジア最終予選、いわゆる「ドーハの悲劇」で、放心状態のラモス瑠偉選手を抱き起こすシーンも印象的だった。そのオフト氏が12年ぶりにJリーグ1部(J1)ジュビロ磐田の監督に復帰する。
○…04年から5シーズンで暫定を除き4人、3シーズン連続で指揮官が途中交代する非常事態。内山監督解任を発表した馬淵社長はチーム黄金期との戦術やリーグレベルの変化を指摘し、「サッカーは生き物。新しいアイデアでやり続けていかないと通用しない」と明言した。Jリーグ加盟の初代監督として3年間、黄金期の礎を作ったオフト氏の再招へいは、果たして社長の言う“変革”にかなうのか。
○…磐田をよく知る指導者として、チーム内の不安や動揺、憤りを最小限に鎮める側面もあろう。しかし、監督解任の際に社長は、「プロとしてどんな監督の下でもうまく使われ、パフォーマンスを出すことを考えてほしい」と選手に要望した。シーズンの3分の2を終えてJ2降格圏内に低迷する現状打破へ、後任監督の条件には「五分以上の成績」というノルマも示した。シーズン中の短期人選には、過去の実績を「助走」に持つオフト氏が適任と判断したのだろう。
○…8月28日のリーグ戦第23節の終了後に監督解任の可能性を示唆し、翌日、解任を発表。3日後の9月1日にはオフト氏の就任決定を正式に発表した。第23節で下位の千葉と引き分けた試合後、「自分の中では8月9日の神戸戦(の完封負け)で意思を決めた。今シーズンを象徴していた。しんどいかな―と」と社長は語った。水面下での後任人選は神戸戦以降、3週間をかけて練ったともとれる。
○…第16、17節で今季2度目の連勝を果たし、内山監督は「選手が気持ちを入れて戦ってくれたことがすべて」とたたえた。しかし、第18節にロスタイムで逆転負けを喫すると、ここから3分け3敗。追いつかれての引き分けや完封負け、逆転負け。先発布陣が逸機を繰り返し、中山選手や名波選手のベテラン投入による精神的建て直しも実らなかった。負のスパイラルはいかんともしがたかった。
○…かつて常勝の名を欲しいままにし、国内クラブとして初のアジア王座にも就いた。シーズン前後期2部制時代には初の完全制覇を達成し、日本代表と磐田のどちらが強いかという議論までもが真剣に交わされた。あれから5年ほどしか経過していない。しかし、社長の先述の言葉を借りれば、サッカーという生き物の成長が磐田を軽く上回ったということになる。
○…ジュビロという名前の由来となった「歓喜」が封印され、サポーターからは「ブーイング」が日常となってしまった。「昔のジュビロでないことは分かっている。サックスブルーに身を包むわれわれもチームと心中のつもりだし、目の前の弱体化したジュビロを応援していることは百も承知なのだが。それでも、こんなはずではないと、どこかに昔日の影を求めてしまう」。旧知のサポーターの言葉は痛い。
○…いまや日本代表が標ぼうする「人もボールも動くサッカー」をいち早く実現し、見ても楽しいサッカースタイルに多くが魅了され、サポーターとなった。オフト氏が礎を築き、桑原隆氏、鈴木政一氏、柳下正明氏らが素地を固めた磐田のサッカー。あうんの連動は無尽蔵な運動量とともに、ピッチを自在に彩った。オフト氏の代名詞である「アイコンタクト」の言葉の昇華ともいえた。
○…「あの時(黄金時代)と同じ選手でやったとしてもどうなったか」。社長の言葉はいまや当時の戦術では通用しないことを示唆する。「新しい革袋には新しい酒を」のたとえではないが、復帰のオフト氏自身が「新しい革袋」となり、選手の意識もまた「新しい酒」にならなければならない。クラブ幹部が「ベストとは言わないが…」と漏らした「一番の理解者の再招へい」。まさに背水の陣である。
(9/2 掛井 一也)