∋ 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が死去したのが1904年9月26日で、今年は没後100年となります。命日を挟んで、各地で記念の催しが開かれました。漂泊の作家、新聞記者は晩年1897年から7年間につごう6回、焼津市に滞在し、この地を深く愛したことが知られています。『焼津にて』などの作品を残した彼は、今も人々に親しまれており、9月24日には業績をしのぶ式典が、市や顕彰会主催で行われました。
∋ 壇上に小泉家の遺族が居並ぶのが印象的でした。9人が参集したそうです。小柄で華奢(きゃしゃ)な孫の時(とき)さんが、猫背の背をさらに丸めるようにして訥々とした口調で返礼の言葉を述べました。八雲にとって焼津は至福の時を過ごす土地だった、と身内の感慨を交えた短いあいさつに、わずらわしい修飾はなく、かえって一族と地方都市の100年以上に及ぶ付き合いの濃密さが読み取れ好感をもちました。
∋ ギリシャのレフカダ島に生まれアイルランドのダブリン、イギリスのリバプール、アメリカの国内を移り住み、日本でも松江、東京、熊本、そして焼津などに足跡を残します。記者としての取材、博識で教育熱心な英語教師。著作の時間の確保に追われる作家はなぜ焼津にかくもひかれたのでしょうか。水泳を好み、急深の海を求めたといいます。
∋ 元士族の娘との結婚、帰化。夫人の姓をとり、名前は出雲の「八雲立つ-」の歌に因むそうですが、既に日本の伝統文化、生活様式に魅せられていました。縁あって焼津の海に巡り合ったのは幸運でした。同時に、逗留を引き受けた地元の魚商、山口乙吉との邂逅(かいこう)が、この漁村への愛着を決定づけました。八雲が「神様のようなひと」と敬愛した乙吉の子孫も当日、式典に出席していました。「開けっぴろげ」と評された焼津の人々は八雲を「先生さま」と慕ったといいます。
∋ 幼い日に両親が離婚し、成長の過程で母への追慕から逃れられなかったといわれる八雲には、孤独の影がひそんでいました。各地を転々とする日々の中で、「土地」というものへのこだわりは指摘されるところです。風俗や民話を創作へのエネルギーにしたのも納得できます。
∋ 焼津という土地、魚のにおいのする素朴な風土とこまやかな人情が、彼の感受性に訴えたはずです。一種のコスモポリタンが、地方都市の小宇宙にのめりこんで、その地のストーリーをグローバルに語り広げてゆくのは、自然の流れに思えます。それが彼にとっての焼津の海だったのではないでしょうか。その地でしか聞けない波の音におそらく、観察と感性のひとの魂が聞き耳をたてていたと思います。魂が揺さぶられる時、些細な波音も霊的なものに高まってゆく、そんな感じがします。式典に招かれた遺族は翌日、八雲が水泳を楽しんだ浜を訪れた、と静岡新聞の記事にありました。
(鮟鱇)
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