∋ 大関琴欧州が誕生しました。人気低迷にあえぐ大相撲にとって、「救世主」の期待が込められているはずです。甘いマスク、長身、はにかむような控えめな言動の一方、芯の強さには定評があります。このところ角界を席捲するモンゴルでなく、初のヨーロッパ勢、ブルガリア出身というのも新鮮なのでしょう。日本人好みの力士ともいわれます。
∋ 空席がやけに目立った九州場所は、朝青龍の記録ずくめの優勝で幕を閉じました。パフォーマンス好きの総理が、表彰のため土俵に上がり相当に練ったとおぼしき称賛フレーズでも発しなければ、前日既に決まっていた賜杯への関心はさらに低下していたかも知れません。その14日目、印象に残ったのは、大関魁皇を下して勝ち名乗りを受ける朝青龍が、紫の座布団が舞う土俵で泣く姿でした。”蒼き狼”に涙、という図は、日ごろふてぶてしさが反感を買う横綱の意外な素顔を見せた瞬間でした。
∋ 千秋楽では、定年を迎える立行司木村庄之助に花束と懸賞金の包みを手渡した横綱に笑顔がありました。一人横綱として務める自らの土俵の大半をさばいた行司への素直な感謝の表明でした。去り行く大ベテランに、わが世の春を謳歌(おうか)する若者が敬意をあらわす。テレビ桟敷で、ぐっときました。
∋ 強引な取り口、勝利へのむき出しの執念、自己流を貫くスタイルにとかくの批判が絶えませんが、何より強すぎることへの反感が底流にありそうです。彼はそれでも、自らの負けに歓声が沸くような敵役を一手に引き受けてきたのです。「何か文句があるか」とでも言うようです。孤高というにふさわしく、大相撲の看板をしょって立つ大横綱になりつつあるのです。
∋ ふがいない大関陣に、大相撲の現状が凝縮しています。ばたばたした自信のない取り口、けがに休場、かど番の回数で新記録を重ねるありさまです。敗れて悔しがる姿を、ついぞ見なくなりました。朝青龍にからきし歯が立たないのは勢いの違いとしても、まるで工夫がありません。強い力士が研究を怠らず、隙(すき)を排して攻めるのですから、やると負けも無理からぬところです。この痛ましい相撲ぶりにそれでも、ファンは温かいのです。必死に拍手、手拍子を送る光景に、地元ファンというのは、つくづく有り難い存在だと思います。大相撲はまだ見捨てられてはいないのです。が…。
∋ 外国人力士にあって日本人にないもの、それは「ハングリー精神」などといえば月並みに過ぎるでしょうか。まず「時代が違う」と一笑に付されるに違いありませんが、日本でも、戦後の焦土から立ち上がり成長、繁栄を獲得してゆく過程を支えたのは先人たちの渇望感だったと思います。志の高いそのエネルギーが消え、身を寄せ合い互いの弱さをかばい合うだけでは発展も何もありません。
∋ 角界を経営陣として指導する、怪童と呼ばれた北の湖、ウルフ千代の富士ら名横綱はいずれも「憎らしいほど強い」力士たちでした。がむしゃらな強さに次第に美しさや品格が備わっていったのです。相撲”道”と呼ばれるゆえんです。格闘技だから喧嘩と一緒、強ければいいのだという外国人力士の相撲観を修正するのも、強くてこそ備わる品格を身をもって示すことです。
∋ 日本には、人智を超えた努力を重ねるがその姿を他人には見せない、過酷な状況に人知れず耐え、得られた成果についてはいたずらに誇らない、といった”抑制の美学”がありました。その美徳はしかし、神話として語られるだけになったのでしょうか。新大関琴欧州の使者を迎える口上も、短いながら味わいがありました。なにか軽薄になってゆくような世相に背を向ける潔さが感じられるのです。土俵でみせた朝青龍のあの涙の裏には、彼一流のメッセージが込められているように思うのです。日本人が感傷の中で進出を排除しようとしている間に、最も保持しなければならない美徳まで奪い取られかねない。それでいいのですか、と。
(鮟鱇)