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2006年「Webコラム一灯」

 変身譚 -小川国夫講座

2006/11/06

  秋の叙勲で旭日中綬章を贈られた小説家の小川国夫氏の喜びの言葉になんともいえない味わいがありました。静岡県藤枝市に生まれ、青春の一時期を除き故郷で70年間にわたって創作活動に取り組んできた小川さんは、日ごろ自らを「枝っ子(藤枝っ子)」と呼んでいます。その枝っ子が枯れ枝になった、とユーモラスに表現し、消え行く枯れ枝の消え方を内面的に文章に書き込む、と語っています。「ぼくが滅びて姿を消しても文学は残る。いつの日か、枯れ枝の文学に若いカラスが止まってくれるでしょう」。


  小川国夫文学の背景には、若い日の漂泊があります。言い知れぬ不安の中で、フランス留学、地中海地方やアフリカなどを放浪した体験です。訥々とした語りで、治癒力のある言葉が滲み出る小川さんの講演は、周囲を包み込む人柄そのものの魅力をはらんでいますが、しばしば地中海体験を題材にして話します。日本文学には稀な「変身譚」の意味を説くのです。先ごろ開かれた秋の市民文芸講演会のタイトルは、「地中海の思い出」でした。


  芥川龍之介を読み、詳しく調べているが、日本での芥川研究は十分でないと言います。彼の自死の謎が解明されないからです。芥川は、「僕たちはエンペドクレスに習って神になろうと誓った」という文章を残しているが、ここに手がかりがあるのではないか。エンペドクレスは、古代ギリシャの哲人、詩人ですが、オルフェウス教信仰から聖地エトナ山の火口に飛び込んで死にます。神との合一を目指した変身願望の実践でした。


  芥川の時代、エンペドクレスを信奉する若い人々がいました。1903年、日光・華厳滝に身を投じた旧制一高生、藤村操は、「巌頭之感」を書き残しました。当時のエリート学生の自殺は社会に衝撃を与えましたが、特に彼の辞世が、「不可解」という言葉だったことで人心が惑ったのでした。「人生は不可解」。文学青年は、時代の大きな空気の中で棲息していたのだといいます。


  シシリー島のエトナ山はいわばご神体です。それを守る神主がエンペドクレスで、彼は火口に飛び込むことによって神になった。オルフェウス信仰によれば、最高の存在は「霊であり、風であり、海であり」、現実の形をとらずに宇宙のどこにでも在るとのことです。芥川は、死にたい、自殺したいと念じましたが、その意図の背景はエンペドクレス信仰から光をあてないと分からないのではないか、という問いかけです。それほどに当時の若者の心をとらえたのがエンペドクレス的な考えだった。


  時代のそうした気分を日本の精神史の文脈で解析する必要がある、狭義のリアリズムに陥り職人的に書くのがすぐれた小説とみなされるが、バックボーンにまで踏み込まなくては文学の解釈としては片手落ちではないか。文学は人間の否定的側面、暗い側面にかかわる。そこに必ず目を向けなければならない。小川さんは、飄逸な「若いカラス」という言い方で、文学の継承者に期待を寄せているということでしょうか。


(鮟鱇)




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