∋ 静岡県藤枝市在住の作家・小川国夫氏の邸宅で、見るからに温厚そうな初老の紳士に会いました。電話では何度か話したことがありましたが、対面は初めてです。東京から訪ねてきたのでした。旧知の間柄のように、不思議と打ち解けた雰囲気になりました。言ってみれば、小川文学に親しむ”同志”の気分なのでした。
∋ 静岡市の浮月楼で、小川国夫氏を囲み、その文学や人柄の魅力を語り合う夕べが開かれることになっていました。彼は、小川氏を慕って集う、東京の読書グループの世話人を引き受けています。囲む会に出席するため、やってきたのでした。
∋ 一昨年暮れ芸術院会員に就任した小川氏は今年12月、80歳を迎えます。地中海体験などを経て故郷に戻り、以後、地方都市藤枝にとどまり独自の文学世界を築いてきました。現代日本文学の巨匠と目され、秋には名作短編「逸民」の舞台になった蓮華寺池畔に、小川氏ら市ゆかりの作家らの資料を収集展示する文学館の開館が決まっています。
∋ この節目に合わせてDVD文学アルバム「故郷を見よ 小川国夫文学の世界」の制作を企画しました。作家の日常に迫るため、8カ月に及ぶ取材を行い、作品の舞台をたどり、再読を繰り返しました。小川文学の”響き”ともいうべき母語、志太地方の方言を生の音で聞き、酒を酌み交わしながら周辺の人々の証言を集めました。浮かび上がってくるのは、寛容、包容の大人(たいじん)ぶり、愚直なまでに風土、土地の空気にこだわる創作者の姿でした。自らを小川氏は、好んで「枝っ子」と呼びます。「藤枝っ子」のことで、生っ粋の土地っ子であることを誇りにしているのです。
∋ 囲む会は、小川氏をリーダーと仰ぐ静岡県文学連盟、文学館建設運動の母体となった藤枝文学舎を育てる会などから14人の発起人が名を連ね、開催に尽力しました。作家が長年にわたって講師を務める文学講座の受講者、そして幅広い交流を象徴するように絵画、書、彫刻や工芸など芸術関連団体などからジャンルを超えて多くの方々が、「小川さんのことなら」と奔走したのでした。
∋ 会場に目立ったのは、和服姿の女性たちでした。この日の主役は、小川文学を語り合う愛好者の輪に分け入って、実に愉快そうにコップ酒を味わっていました。気さくな人柄、飾らない言葉、その魅力に引きつけられた人々が、記念撮影に歓声を挙げる。小川氏が、地方文化の求心力になっていることを実感させる場面の連続でした。
∋ デジタル時代にふさわしい、新しい手法と形態の文学記録をもくろんだDVDアルバムですが、コンテンツは普遍的な価値を有する地方の風土・文化、地方の言葉で埋めようと企図していました。謝辞の中で小川氏は、家で映像を鑑賞した夫人のエピソードに触れました。背後にいる自分のことを忘れて見とれ、聞き入る光景だったといいます。作者の存在を離れて作品が存在し読まれ続けるのは、作家冥利に尽きることだと述べましたが、小川作品の魅力はその人柄と切り離せません。枯木、老境を淡々と口にする小川氏ですが、その訥々とした語りには、苦悩と深い思索がたどり着いた明晰さがひそんでいると思います。囲む会には、開催を知った人々から次々と参加希望が寄せられました。遠来の客も含め、出席者は二百人近くに上ったのでした。 (鮟鱇)