∋ 静岡県藤枝市在住の作家小川国夫氏の文学世界を志太地域を中心とする風土を軸にたどる「故郷を見よ」をDVD文学アルバムとして刊行しました。昨年ほぼ1年にわたって小川氏に密着し、巨匠の日常の風景はもちろん、講演や囲む会なども取材しました。小川氏は、地中海、フランスなどヨーロッパ放浪、アフリカ体験などを小説やエッセーに残していますが、思索の旅を回顧する講演は、エピソードの一つひとつが含蓄に富んで、聴衆の記憶に刻まれます。
∋ 静岡市の公民館を会場に開かれている婦人文学講座は、既に30年に及ぶといいます。読売文学賞受賞作「ハシッシ・ギャング」について語る場面をのぞいたことがあります。講座生は、ユーモアを交え、さりげなく創作の裏側を披瀝する作家の話に聞き入っています。終了後は、喫茶室で小川氏を囲むのですが、堅苦しさはなく「先生、先生」の声が飛び交います。小川氏本人もこうした雰囲気を楽しんでいるようで、律儀にやってくるのです。苦悩を重ねた若い日、小川氏は受洗しています。いま文学を愛好する人々に語りかける姿は、穏やかな使徒のごとくにみえます。
∋ フランス文学や美術を中心に、欧州の歴史、哲学などにしばしば言及しますが、英米文学にも通暁しています。その知識の広さと記憶の深さは、際限がないのでは、と思わせます。架空の土地に託して米南部と人々の物語を斬新な手法で綴ったウィリアム・フォークナーは、独自の文学世界を構築して、ノーベル賞を受賞した巨人です。内外問わず、20世紀の“知”に広く影響を与えた作家ですが、風土を重層的にとらえる作品群で、フォークナー=小川のつながりはつとに指摘されるところです。そこに焦点をあてて比較文学の視点から解析した博士論文が書かれたという記事が、6月6日付け静岡新聞朝刊第二社会面に掲載されていました。
∋ 「故郷を見よ」の取材過程で頻繁に目にする女性がいました。記事の主役、静岡市在住の石井洋子さんです。76歳になる彼女は、三島市の日本大学大学院国際関係研究科でその博士論文により博士号を取得したとあります。壮大なテーマであったと想像しますが、英文学に興味を抱いた彼女は、日大の通信制で学部、博士前期課程まで学び、04年からは三島に通って博士後期課程の研究生活を送ったそうです。50歳代半ばから20年にもわたる学究の、持続する志に感嘆します。
∋ 小川文学は、修飾を排し、そぎにそいだ明晰な文章、土地の音と空気をはらんだ言葉を淡々とつなぐ会話が特徴の、難解な作品で構成されています。フォークナーも決して読みやすい作家ではありません。あえてこの重い主題に挑んだ研究者のエネルギーは、なまなかのものではないと思います。小川文学が、人をとらえて放さない磁力を持っている証明でもあります。
(鮟鱇)