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2007年「Webコラム一灯」

 新総裁に寄せる

2007/09/23

   江戸後期の儒学者佐藤一斎は88歳没といいますから、当時としては相当の長寿だったでしょう。よく知られる「言志四録」は、「言志録」、「言志後録」、「言志晩録」、「言志耋録」から成る箴言集で、「日本思想大系46」(岩波書店)によれば、一斎42歳から80歳までの長期にわたって書き続けられました。この分厚い「日本思想-」には原文が掲載されています。70ページ余の分量ですが、その一条一条には含蓄ある教えが込められ、歴代の指導者たちが座右の書にしてきたのも理解できます。

 

   訓読文から引いてみます。「言志後録」の一〇には、こうあります。「天地間の霊妙なるは、人の言語に如くはなし。……譬ふるに、猶ほ利剣の善く身を護るもの、輒(すなわ)ち復た自ら傷つくるがごとし。慎まざるべけんや」。政界に蔓延する失言、言葉の軽視の現象をみるにつけ、噛みしめたい教えです。一斎いわく、「国の本は民に在り、人主これを知る」(「言志耋録」二八〇)。

 

 ∋  新しい自民党総裁が誕生しました。それはそれで慶賀にたえませんが、日本の将来を楽観できるかといえば、そうはゆきません。積極的な選択の結果と評価しがたいのは、まずここに至る経緯が釈然としないからです。かりそめにも国を率いる人物が、突如責務を放り投げ、その背景すら未だに詳細に説明されていません。本人の肉声なく、だから謝罪もないのです。追及しようという声も、永田町からは聞こえてきません。「けじめ」どころではないのです。

 

   劇場型政治に酔っている間に、政界だけでなく社会全般を蝕んだ病理があります。単純化、幼稚化です。多少は格調高く時代がかった理念を唱え、「私の内閣」を率いた若い宰相の退場の仕方が象徴しています。まるでおとなの成熟を感じさせません。もちろんこの地位に伴う精神的葛藤には、常人が思いも及ばぬ厳しいものがあるでしょう。それを抱いて孤独を生き抜くのがリーダーです。「なぜ、放り投げたのか」。恥ずべき問いとはいえ、答えを明かすことなく、今回の総裁交代を正統化することはできないはずです。

 

   日本の政治にとって決定的なダメージでした。最高権力者のポストがかくも軽いものになっていた、そのことが流布したのです。さしたる異議もなく、血筋や毛並みで政権がゆだねられる。むき出しの奪権闘争がない代わり、執着も乏しい。そんな人々が国の運命を持ち回りする。それでも破綻しないのは、制度や機構、システムや仕組みが整備されているからだと言えなくもありませんが、それで務まる総理・総裁なら、だれでもいいということになってしまいます。

 

   米国の大統領はどうでしょう。予備選を経る指名争いは実に熾烈です。何年もかけて候補者群はふるいにかけられます。不覚の涙を見せたばかりに退場を余儀なくされたり、不用意な一言のために棒に振ったり、といった先例を見てきました。このように“厳選”されて本番に臨み、そして運良く大統領に選出され、誤りなき為政者になるかといえば、泥沼の戦争にのめり込んで若い兵士を死に至らしめ、世界情勢を不安定化させる。失政の繰り返しすらまれではありません。「指導者になる」とは、途方もなく困難で覚悟の要る仕事でしょう。

 

   重圧に耐え、公に一身を投げ打つことでしか乗り切れません。退陣間際に国際公約を打ち上げ、年金照合、教育再生、拉致問題などの国民的課題を、あとは知らぬとばかりに放置するなどあり得ません。総裁選最終盤の公開討論会で、指導者として最も大切な資質を問われて2人の候補が挙げた答えが暗示的でした。「孤独に耐える力」と「辞める時の決断」。前例に学ぶことなく浸透してほしい要件でした。この10日余の醜態は、日本政界の根の深い体質を露呈させたもので、政治家等しくもって銘すべしです。

 

   「言志後録」から再度引きます。「政を為すに、須らく知るべきもの五件あり。曰く軽重、曰く時勢、曰く寛厚、曰く鎮定、曰く寧耐、これなり。賢を挙げ、佞(ねい)を遠ざけ、農を勧め、税を薄うし、奢を禁じ、倹を尚(とうと)び、老を養ひ、幼を慈しむ等の数件の如き、人皆これを知る」(七九)。これらの文字から、意味を推し量ります。古色蒼然のようですが、普遍的な価値を説いているのです。

(鮟鱇)




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