∋ 静岡県藤枝市在住、芸術院会員の作家・小川国夫氏は、若い日、画家を志したことで知られます。東西の芸術について博覧強記、筆もよくします。男性的な力強さが特徴の文字は据わりがよく、石碑などにも筆跡を多く残しています。「今ここに/さし潮のとき/高くはげしき/潮々よ/合しては/多様を思い/散りゆけば/一致を思う」。
∋ 巻頭に小川さんの詩が筆で綴られています。「サッカー六十年のあゆみ」。小川さんの母校藤枝東高が創立六十年の式典を挙行した昭和57年(1982)に刊行した記念誌です。A4判、ハードカバー、箱入りのずしりと重いグラフ誌を社の書庫で見つけました。150余ページの大半は、モノクロで埋められています。スクールカラーの藤色に彩られた写真が登場するのは、最後の方です。白黒の写真の一枚一枚に歴史をしのぶことができます。
∋ 校史がそのまま球史であるのが、藤枝東高の伝統を物語ります。大正13年、志太中(藤枝東高の前身)が設立されると、校長に就任した錦織兵三郎は校技に蹴球(サッカー)を取り入れたのでした。記念誌には、「精神作興」のため各種競技を検討した結果、運動量、男性的進取の気性、連帯感などを評価して決めたとあります。特に、「未発達競技の将来性への期待」を重んじたようです。
∋ 藤色の扉の口絵写真にまず驚きます。戦跡そのままに、おびただしい数の優勝ペナント、トロフィー、賞状、盾などです。もちろん、伝統校と言っても、黎明期があり、黄金時代があれば、雌伏の季節もまぬがれません。復興期までの苦節もあったはずです。そうした幾星霜を重ねて、昭和42年(41年度)の「偉業3冠王達成」に至るのです。高校総体、国体、全国選手権の主要大会すべてを制したのでした。
∋ ページを繰ってゆくと、その時々の熱気がよみがえってくるようです。昭和6年、東京文理大主催第8回全国大会初優勝の記述が出てきます。提灯行列で祝したようです。1936年第11回五輪ベルリン大会の「日本代表軍」に笹野積次、松永行両選手を送り込んでいます。東京大会には、富沢清司、山口芳忠選手が選ばれていました。第8回国体に初出場、第12回静岡国体で全国の頂点に立ちました。東高会場での天覧試合の記録があります。昭和38年、全国選手権初優勝は、その後も宿敵となった埼玉勢の浦和市立が対戦相手でした。
∋ 時を経て平成20年。選手権決勝を控えて、新聞に折り込まれたチラシが目をひきました。「聖地(国立競技場のこと)に藤が舞う!」と大書された藤色の文字が、それこそ舞っています。久々に決勝に進出した藤枝東高が、地域に活気をもたらしました。「国立で貴方も藤色戦士に!」「 ……国立に行けない貴方は、大画面で応援しよう」とパブリック・ビューイングへの参加を呼びかけていました。主催は、市、商工会議所や青年会議所、県・市のサッカー協会などで構成する「国立へ行こう実行委員会」となっていました。
∋ その決勝、0-4。思いのほかの大差で惜しくも優勝は逃しました。しかし悪びれたところは一切なく、最後までゴールに向かう執念を見せました。何より流麗なパスサッカーをひのき舞台で披露したことに好感を抱きました。記念誌の詩に則して言えば、伝統の流儀への「一致」が収穫だったのではないでしょうか。
∋ 藤枝東高には、土のグラウンドを見下ろす低い観覧席があります。一部屋根も設けられたコンクリートづくりは、もちろん多くの観客収容は無理でしょうが、高校の観覧施設としては随分立派なものです。何度も全国にコマを進め、日本代表を目指す世代の目標になってきた東海の雄です。この決勝を機に、サッカー王国復興の舞台になってゆけば、と願うのです。
(鮟鱇)