∋ 確か購入したはずだ、手元にある、と思っていた本が見つかりません。寒の戻りのような冷雨が吹きつける休日、図書館に向かいました。結構、混んでいます。目当ての一冊が貸し出しになっていたら、と心配しましたが、レファレンスでヒットして、ひと安心です。スコット・フィッツジェラルド著「グレート・ギャツビー」、それも村上春樹訳(中央公論新社)です。
∋ 原作は1925年刊行。もちろんアメリカ文学の名作として読み継がれてきましたが、1年半ほど前、ブームになったように記憶します。J・D・サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」新訳とともに、村上訳「愛蔵版 グレート・ギャツビー」は出版界の話題になりました。箱入り、豪華な造本です。別冊で、村上氏の書き下ろしエッセイがセットになっています。
∋ 訳者あとがきによると、村上氏は、60歳になったら「グレート・ギャツビー」を翻訳すると広言してきたそうです。ところが、我慢しきれなくなって、何年か前倒しして着手することになった。同時代の文学作品で「これだけはどうしても自分の手で訳してみたい」と念じてきた、極めて重要な意味を持つ著作だというのです。「読み手村上」にとって、それほどの思い入れがある作品だということでしょう。
∋ こうしたいきさつをあいまいな記憶の中からたぐり寄せたのは、「パブリッシャー 出版に恋した男」(晶文社)の著者で、カリスマ的な編集者であるトム・マシュラーの講演を聴く機会を得たからです。ドイツ生まれ、ナチスを逃れ英国に亡命したマシュラー氏は、ペンギンブックスを経て文芸出版ひと筋、ブッカー賞の設立者となります。世界の出版界に最も影響を与えた出版人の1人だとされるマシユラー氏の講演タイトルに、主催のNPO法人日本文学出版交流センターが掲げたタイトルは、「出版と恋愛は似ている」でした。
∋ 先ごろ、英作家ドリス・レッシングがノーベル文学賞を受賞したニュースが、「マシュラー」の声価を一層高めることにもなりました。出版人として、この世界で最も権威ある文学賞受賞者を14人も手がけてきたというのです。彼が作品を出版した受賞作家のリストを見ると、ヘミングウェイ、ネルーダ、ガルシア=マルケス、レッシングら地域を問いません。第一級の文学の読み手から、国籍、性別を超えて文学史に輝く作家を発掘する極意を聞こうと招聘したのでした。
∋ 講演、それに続くバネルで語られたのは、出版しようという情熱と、そして幸運により作家との関係が生まれ、この絆が名作の発掘につながってゆくという、ごく自然で明快な哲学でした。出版ビジネスとして成功しようと思ったりしない、所有する時間の95%を読む楽しみに費やしてきた、結果として良い本が売れればうれしい-といったあらましでした。と書くと、いかにも簡単なようですが。
∋ 本への、著者への思い入れ、傾倒といったことは、実は極めて個人的な関心、営為です。作家との出会い、すぐれた作品を他の人々にも読んでほしいという気持ちが、文学を発見する第一歩になるとマシュラー氏は説いているのでしょう。世紀を代表する名作を生み出してゆくのは、まさに出版の醍醐味だと想像できます。この個人的な作業はしかし、大いなる確信を伴ってこそ普遍性を有するのです。どうしてもこの作品を世に送り出したい-。読んで、読んで、さらに読む。活字に、文章に生き、文化に貢献するひとの執念です。
(鮟鱇)