∋ 手元の取材メモには、「2006年5月28日、小川邸」とあります。中央文壇と距離をおき静岡県藤枝市で創作を続ける、芸術院会員の作家・小川国夫さんの映像・写真記録を制作する企画を進めていました。タイトルは「故郷を見よ」と決まっていました。日本文学に独自の地位を占める作家は、撮影の合い間など折に触れて気さくに語ります。どんな脈絡だったか、記憶は定かではありません。漂泊の歌人西行の話題になりました。街道の難所、歌枕の小夜の中山で詠んだ歌を口にしました。「年たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山」。「『いのちなりけり』がなんとも言えずいい。当時、ここらあたりは最果ての地だった。えもいわれぬ寂寥が、この歌にはある」。長居をきめこんで、小川邸の居間がそろそろ薄暗くなる時間でした。
∋ 撮影は、何度も雨にたたられました。6月、梅雨のわずかなすきをぬって、藤枝市郊外の滝ノ谷不動峡に向かいました。年齢は少し離れているものの、肝胆相照らす仲の石彫家杉村孝さんの工房を訪れたのです。渓谷の流れにビールを冷やして痛飲しただの蝮酒を試したといったエピソードは聞いていましたが、2人のやりとりは、まるで遠慮がなく小気味よく聞こえます。そして、臨死体験や死生観などの重いテーマに広がってゆくのです。死の床で、参集した人々が「お迎えが来た」 「大往生だ」などと話していると、死者が「まだだぞう」と起き上がった、などと笑い合っています。ジョークのように命をめぐる問答が展開するのは、不思議な光景でもありました。
∋ ギリシア彫刻を彷彿とさせる。そんな風に形容された彫りの深い端整な容貌を若い日から見てきました。モノクロームが映えるのですから、写真集は白黒、と早くからもくろんでいました。実に幅広い分野に知人を抱え、遠隔の地から押しかけるようにやって来る小説ファンも絶えませんでした。大腿骨骨折の後、歩行に難儀するように見うけられましたが、名古屋の講座に通って文学を語りました。その以前、大阪芸術大学では長く教壇に立つとともに同人誌を編集しました。東京にも愛読者のグループがあり、連絡を取り合っています。静岡市の女性文学講座では、自作「ハシッシ・ギャング」を題材にする様子を写真に収めました。
∋ スーツにネクタイをし、靴はスニーカーという奇妙なスタイルがそれなりにはまっていました。靴紐の結び方が怪しい、いや結んですらいなかったのかもしれません。同行する時には、紐を踏んで転びやしないかと、気にしたものでした。取材予定日、グラデーション模様の茶のセーター姿を何度か目にしました。気に入りの一品だったのでしょう、さりげなく自分流を固守しているとみました。たばこを手放しません。自宅で吸う際は、どこで製造しているのかと思わせる、いかにもクラシックで頑丈なマッチ箱が傍らにありました。酒を愛し、ビールのグラスや猪口を両手で包み込むようにして飲みます。この妙薬を慈しんでいるのだと、つい深酒に誘われてしまうのです。興が乗ると、「今から外へ飲みにいかざあ」などと、わざとぞんざいな言葉遣いをすることも珍しくありませんでした。「あの店のすき焼きだ」とか「こちらのコーヒーだ」と店を指定することも一再ならずありました。飾らず、おごらず、来る者拒まず。だからファン、それも熱烈な支持者が常に取り巻いているのです。サービス精神の権化で、「仰せのままに。何でも協力するから」と未熟な取材陣を安心させてくれます。「文士」を自称し書くことの覚悟に触れることがないわけではありませんでしたが、その飄逸ぶりに少々はぐらかされた感じがしないでもないのでした。精神の遍歴、深い思索と哲学は、作品からうかがい知るしかありません。
∋ 2008年3月、静岡市の病院。電動ベッドの角度をさかんに気にして、リモコンを操作しています。急角度にしたり緩やかにしたり、結局は平らな位置に戻してみたり。麺類がどうの、といった他愛ない会話の途中、たまたまウィリアム・フォークナーの話題になりました。ヨクナパトーファ・サーガといわれる難解な作品群でアメリカ南部の暗い情念を主題にした20世紀文学の巨人と、駿河湾西岸の風土に根ざす人々の心の深奥を照らし出した小川さんが、比較して論じられることがあります。簡潔、明晰な文章ながら、小川作品は謎をはらみ緊張に満ちています。「アブサロム、アブサロム」を挙げて、「フォークナーはすごい。アメリカの影を背負って書いた」と言い、「同時に、彼を評価し世界文学の舞台に引き上げたサルトルらフランスの評論の力はさすがだ」と自らうなずいていました。
∋ 若い日、“縋りつくような思いで”故郷藤枝に戻りました。この土地のことを書きたい、この土地のことなら書けるという信念でした。川端康成賞受賞作の「逸民」の背景となった蓮華寺池公園でのインタビューでは、「故郷が僕に歩留まりをくれた」と表現しました。「母語」という言葉を口にします。病弱だった子どもにとっての庇護者としての母、土地の音やにおい、空気に満たされた言葉である母語。同じ志太地方の言葉でも、焼津、藤枝、大井川と聞き分けることができる、例えば焼津言葉には海の響きが漂っていた、というのです。母が語っていた言葉で創作すれば、人と風土を突き詰めてゆくことができる、とも語りました。
∋ 日本文学の伝統である短編の不振を懸念していました。1年で習熟する仕事はあるが、小説は1行書くのに10年かかってもうまくゆかない、とも語り、揮毫を求められて「言葉は光」としたためるのでした。2007年秋、蓮華寺池畔に藤枝市文学館が開館した折、若い記者の質問に、「文学専一に60年やってきて言葉というものがだいぶ分かってきた」と真摯に応じていました。書くことの苛烈さをしかし、直截に語ることは稀でした。温和、包容、飄逸。常に淡々としているようにみえるのです。「枝っ子(藤枝っ子=生粋の土地っ子)は枯れ枝になる。消えゆく枯れ枝の消え方を内面的に文章に書き込む。枯れ枝の文学に若い烏が止まればいい」と、自称枝っ子文士は続く若者を期待していました。
∋ 「故郷を見よ」刊行記念の会を催したのは、1年前、やはり桜のころでした。友人知人ら200人が集まって、上機嫌でした。口癖の「楽しくやりましょう」を連発しながら小川さんは、「作者の存在を離れて作品が存在し読まれ続けるのは、作者冥利に尽きる」と、独特のユーモアを交えてあいさつしました。先の見通しもなく鬱々とヨーロッパを放浪した若い日、そして逸民が生まれたころ。小川さんは、旅に憑かれたひとでした。思索の旅を歩み続けたのでした。4月8日、またひとつ別の旅を見つけたのでしょうか。未明から早朝にかけて静岡県地方を台風並みの嵐が襲った日の午後、小川さんの訃報が届きました。電動ベッドのボタンを弄んで、広い窓から静岡市北郊の山を眺めていた様子が何度もよみがえってきます。いのちなりけり。寂寥をどうしようもありません。小川国夫さん、80歳。
(鮟鱇)