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おとな派 読み物

【寄稿・わが至福の時】半世紀ぶりの伝付峠

2009/05/27

 山歩きの原点となった初めての南アルプス登山は、伝付峠越えから始まった。高校1年だった1960年(昭和35年)夏のことだ。山好きの伯父と伯父の友人に連れられて千枚岳、荒川三山(悪沢岳、荒川中岳、荒川前岳)、赤石岳、聖岳を縦走した時の入山口が、山梨県早川町の新倉からの伝付峠越えだった。縦走のための重い荷物を背負っての標高2000メートルの峠越えがどのようなものだったのか、まったく覚えていないが、南アルプス登山を振り返るたびに懐かしく「伝付」の名前を思い出す。その伝付峠を49年ぶりに訪れた。

 当時、赤石岳や荒川三山への登山基地となっていた大井川上流の椹島、二軒小屋に入るためには静岡市側の畑薙第一ダムから大井川を遡るか、早川町側の新倉から伝付峠越えをするかの、どちらかであった。今では畑薙第一ダムから二軒小屋まで東海フォレストのリムジンバスを利用できるため、伝付峠越えをして入山する人は少ないという。今回の伝付峠へのハイクはSBSツアーズの企画に参加して小型バスで二軒小屋に入り、49年前と逆コースで峠に登った。

新緑の谷の向こうに聳える残雪の赤石岳


畑薙大つり橋の足元に広がる群青色の湖面

新緑の赤石沢

 訪れた5月中旬、大井川の上流一帯は緑の絵の具を吹き付けたような新緑に覆われていた。エメラルドグリーンに輝くダム湖面は新緑が映えて色合いが一段と深まって見える。畑薙大つり橋では、足元に広がる底の見えないような群青色の湖面に吸い込まれそうになって思わず足がすくんだ。畑薙第一ダムから椹島、二軒小屋へと東俣林道を、高度を上げていくにつれ濃い緑から淡い緑へと微妙に変わっていく。色調の変化は季節を後戻りしていることを教えてくれる。

 途中、赤石岳を望むことが出来る場所が一カ所ある。赤石岳の麓を通りながらも東俣林道から南アルプスの盟主を見られるのはこの一カ所だけだ。幸運にも緑の谷間の向こうに残雪を抱いた鋭鋒が姿を見せてくれた。この日、案内してくれた東海フォレストのネイチャーガイドは夏の3カ月間だけ開設される赤石岳山頂直下の避難小屋の小屋番を6年間続けて務めているという。「小屋に来てくれたらビールぐらいサービスしますよ」との誘いに、3度目の赤石登山へ心が動いた。

 二軒小屋には登山者用の昔からの山小屋のほか、立派なロッジがある。ロッジには風呂もあり、清潔なベッドも用意されている。初日はこのロッジに泊まり、翌日、伝付峠を目指した。
峠への山道は山小屋脇の大井山神社鳥居前から始まる。峠まで標高差約600メートル。2時間ほどの登りだ。歩き始めてすぐに登山道脇にピンクの花のホテイランを見つけて歓声が上がった。野生ランの中でも最も美しいといわれるホテイランは盗掘に遭ってその数を減らし、二軒小屋付近でも今はほとんど見られなくなったという。絶滅危惧種の貴重な野生ランは薄暗い林床の中でスポットライトを浴びているようだった。

 登山道は九十九折りに斜面を刻み、シロバナエンレイソウ、ヤマイワカガミ、ツバメオモト、ミツバオウレンなどの山の花が次々と足元を飾る。見上げれば芽吹き始めたカラマツ林が淡い緑のカーテンを引いたように広がり、黄色味を帯びたブナの若葉が緑のシャワーを降らせている。赤紫のトウゴクミツバツツジが緑の中にひときわ鮮やかだ。静岡市と早川町境の尾根筋にはようやく春が訪れたところで、ミネザクラの小さな花が冷たい風に揺れていた。尾根に出て100メートルほど北に向かうと伝付峠だった。

 49年前の写真を見ると峠には「轉付峠標高2020米」と刻まれた石の標柱が立っていた。伝付峠は古くは転付峠(轉付峠)と記された。その石柱がどうして折れてしまったのか、半ばほどから下しかなく、木の新しい標柱の後ろに忘れ去られたようにあった。折れた標柱を前に記憶を呼び戻そうとしたが、何も戻ってこなかった。雲が広がり、間近に見えるはずの荒川三山、赤石岳や富士山の素晴らしい眺望は得られなかったが、半世紀ぶりの再訪に心は満たされていた。

(O.K=静岡市在住)

エメラルドグリーンに輝く田代ダム湖

二軒小屋の古い登山小屋


大井山神社の鳥居前から始まる
伝付峠への登山道(右)


新緑のブナ林の登山道

ヤマイワカガミ


49年前の伝付峠。筆者(左)と伯父


絶滅危惧種のホテイラン


淡い緑のカラマツの芽吹き

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