日本で開催された北京五輪世界最終予選第6戦で、アルゼンチン代表を下して植田ジャパンは北京行きチケットを手にしました。背番号1、身長2メートル5センチのミドルブロッカー齋藤信治選手は、会場を埋め尽くした日本の応援団の歓声を耳にしながら「うれしかったが、手放しでは喜べなかった」と言います。大会前に、北京五輪を花道に現役引退を表明していたことや、ひざを痛めていたことなどが、ノブコフ205(齋藤選手の愛称)の心を揺さぶりました。しかし1992年のバルセロナ大会以来となる日本の五輪出場メンバーに、齋藤選手の名前がありました。 シドニー、アテネと2大会連続で五輪出場機会を逃した齋藤選手だっただけに、北京五輪出場は現役最後の大きな勲章となりました。所属する東レの壮行会で齋藤選手は「3度目の挑戦で最後のチャンスをつかむことができた。日本代表としてしっかり戦ってきたい」と決意を述べました。北京での日本の見所なども伺いました。(2008年6月19日取材)
小学校低学年のころにテレビ中継で見た熱戦に引かれ、母親がやっていたママさんバレーの会場にも足を運ぶようになった齋藤選手。通っていた中学にはバレー部がなく、剣道と野球をやっていたものの、高校入学後に当時2メートル2センチあったという長身を生かそうと「迷わずバレー部に入った」そうです。入部はしたものの栃木県内の強豪とも言えない高校で、3年間でバレー生活は終わりかと思っていたそうですが、3年のとき「運に恵まれて」大学でもバレーを続けることになったそうです。その後は日体大、東レと、バレーひと筋となった競技生活は20年と長いものの、始めたのが高校1年の時と決して早くはなかった齋藤選手が欠かさなかった練習はというと…。 世界最終予選前に現役引退を表明した齋藤選手に、13年間在籍した東レ・アローズの良さも伺いました。 思わず、「そうだったんだ!」とひざを打ちたくなるような回答も。男子バレーボールのベテラン選手に、しずおかスポーツView恒例、10個の質問をぶつけます。題して「クエスチョン10(Q10)」! 息子さんの名前にもした言葉…。齋藤選手は、若き時代の思いから、その言葉を心の中に強く持ち続けているようです。ところが色紙に記した文字は…。 子ぼんのうな齋藤選手。取材日にも練習会場に奥さんに連れられた息子さんの姿がありました。バレー選手として輝くパパの姿を見せておきたいという思いがあったのかもしれません。そんな斎藤選手の「宝物」は、遠征などにも欠かさず持っていくものでした。それは… 北京五輪への出場権をかけた世界最終予選を前に、齋藤選手は「現役引退」を発表。多くのバレーボールファンにとってショッキングな出来事でした。複雑な思いがあったという斎藤選手が、思いの丈を語ってくれました。
「背番号1」が北京のコートに立つと、ゲームの流れは日本に。リードされている場面でもチームのムードを盛り上げようと、積極的に笑顔で仲間を励ましたといいます。テレビ中継の画面を見ていた私には、やはりベテランの齋藤選手がJAPANには欠かせない存在だと感じていました。しかし「来シーズンは東レのユニフォームは着ません」と現役引退を五輪前に表明していた齋藤選手は、JAPANのユニフォームで現役生活に幕を降ろしました。大会前、三島市にある東レの体育館に取材に伺った際、JAPANのユニフォーム姿で取材させて欲しいと願い出ていたところ、「チームメイトにはJAPANのユニフォーム姿は見せたくない。出たくても出られなかった選手もいたから」と、他選手と一緒になる選手更衣室ではなく、取材用に用意されたカーテンの引かれた部屋の中で着替え始めました。仲間への気遣いの出来る方だと、あらためて感じた場面でした。齋藤選手にあこがれてバレーを始めた子どもも多いはずです。指導者としてバレー教室などを通して、今後もバレーの面白さを伝えてもらえたらと思います。ノブコフ205こと齋藤選手、お疲れ様でした。(デジタル編集部・吉本寿)